話しているうちに、ずっと忘れていた昔の事を思い出したり、手紙を書きたくなるような人間になれたらいいなあ。

バカっぽく振る舞った方がトクをすることってあります。

 反知性主義ってそういう事?と思ってパラパラめくってみたら、なるほどなるほど、短期的になればなるほどバカな方がトクをする。でも私達は時間がながれる世界に生きている。

 今すぐ欲しい!って人とvs明日があるから大事にしたい人。今しかない人は明日がある人からなんとか奪おうとするし、明日がある人はなんとか守ろうとする。この本は現在進行形のせめぎ合いの物語なのだと思いました。

社会の根幹部分に反知性主義、反教養主義が深く食い入っている事は間違いありません。
それはどのような歴史的要因によってもたらされたものなのか?
人々が知性の活動を停止させることによって得られる疾病利得があるとすればそれはなんなのか?
「まえがき」より

一章の「反知性主義者たちの肖像」で内田樹は「知性」についての定義を行っています。

・知性とは集団的な現象である。
知性は集団で発揮するものだと定義しています。
その人がいるせいで、ずっと忘れていた昔の事を思い出したり、手紙を書きたくなる。
その人がいるせいで、周囲から笑いが消え、疑心暗鬼になり、誰も創意工夫をしなくなる。
 
 集団として知性を発揮出来ている状態と、知性を押し殺している状態。前者の方が快適であるのは確かなのに、どうして後者の状態に陥ってしまう事があるのでしょうか。

 その事について、この章では明確に答えてはいません。だけれども、いま答えの出ない問題については、答えを急がせるより、後世に託すことが知性的だとして自らそうである事を望んでいるとするなら。断片的にわかった事を混沌のまま知性的な集団に差し出す方を選んだのかなと思いました。

 反知性的な人々がどうであったかの例として、さまざまな政治家の例があげられています。現在の民主主義では政治的生命は長くて30年ほどです。何かあっても次の世代の責任で、自分自身は責任を負う事がない長さです。30年というのは長いようで短い。この期間を逃げ切ればいいとして利益を最大にすることを優先したら・・・「そんなこたぁどうでもいい!」ってなりますよね。

 二章以降も、小泉総選挙の分析、天皇制、憲法、マイルドヤンキー、原発事故、イスラム論などなど今さえよければいい人達がどのように振る舞ってきたかについて論じられていきます。

 ため息が出るような事例がずらりと並んでいて、読んだ後やれやれだぜーという気分になりました。だけど現在進行していることを分かった上で、どうしていくかを考えてみるのは面白いことです。

 話しているうちに、ずっと忘れていた昔の事を思い出したり、手紙を書きたくなるような人間になれたらステキだなあと思いました。